ありのままの自分を、自由に文章で表現するのはとても危険

文章の「わかりにくさ」が発生するのは、「人間はわかり合える存在」だと思い込んでいることが原因。これについては、ブログで過去に何度も書いてきました。

もう一つの原因は、無防備に文章を書いていること。

無防備に文章を書く人は、話すことと書くことを混同しています。
話すときには、言葉以外に表情や手の動きなどでもコミュニケーションを取っています。
さらに、相手の反応も見えるから、軌道修正がしやすいのです。
最後に「ワハハ」と笑ってしまえば、なんとなく円満になり、うやむやのうちに会話が終了することもあるでしょう。

一方、書いてしまった文章が相手に渡ってしまったら、取り返しがつきません。
後で修正したとしても、最初の文章は「証拠」としてずっと残ります。特にデジタルデータの場合、自分の知らぬ間に拡散する可能性もあります。

感情に任せて言葉を書き連ねるのは、人ごみの中でわめき散らしているのと変わらぬ、顰蹙を買う行為。後から反省しても、取り返しがつかないこともあります。

この点で学校教育の国語と正反対かもしれませんが、「ありのままの自分を、自由に文章で表現するのはとても危険」という姿勢で私は作文ワークショップに臨んでいます。

例えば、自分の中に不満があったとしましょう。
その不満を誰かに気づいてほしいために「ウザい」を連発したり、「傷つけられた」と長文をしたためたりしても、「不満がある」という一方的な感情しか相手には伝わりません。
子どもならばまだかわいいものですが、大人になると「何を伝えたいのか、よくわからない」「こんな人はつき合い切れない」と敬遠されてしまうでしょう。

「人間はわかり合えない存在だけど、なんとかして気持ちを伝えたい」「皆さん、忙しいとは思うけれど、私の文章をなんとかして読んでもらいたい」という熱意と謙虚さ。これらを持ったうえで、不満があるなら、その理由と自分が望む解決法まで検討してから文章を作成するわけです。

話した言葉をそのまま文章にしない。
ありのままの自分を文章化にしない。
自分の感情を言葉を使って整理する。
外界の情報を言葉を使って分類する。
言葉を論理的に組み立てて文章を作る。

これが作文です。

ここまで書いてきて思うのは「作文は非効率的に、実に面倒くさい」ということ。しかも、才能がない私は文学的作品は書けないので、作文をがんばったところで儲けにはつながりません。それでもなお作文ワークショップを開くのだから、これはもう私という人間の業なのでしょう。

3月20日の作文ワークショップでは、子どもを対象にして行った「苦情の手紙を書く」をアレンジして、大人で試してみようと思います。


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