得意な部分は誇張し過ぎず、的確に周囲にアピールしよう

読み書きで困難さを抱えている子どもは、通常の授業でも大きなストレスを受けているのではないでしょうか。
私は授業参観で息子の様子を見ながら、そう感じていました。


「みんなと同じように僕は勉強ができないかもしれない。しかし、僕にはみんな以上に優れている部分がある」
息子はこのように考えている節があります。

もちろん、これは悪い考えではありません。
誰にでも得意・不得意はあるし、得意な部分をどんどん伸ばしていってほしいと私も思っています。

しかし、危険性もはらんでいます。
私は過去の仕事で、障害を抱えたお子さんを持つお母さんから、お子さんが書いた詩で詩集を作りたいという提案を受けたことがありました。
どうやってお子さんが詩を書いたかというプロセスを調べたところ、周囲の大人たちが代わりに詩を作ってしまったのではないかと疑問になったのです。
過去に、あるテレビ番組で「奇跡の詩人」として重度障害児の詩が発表されたのですが、ねつ造ではないかと視聴者から批判を浴びました。
私はそのテレビ番組の動画を確認したのですが、少年が自発的に文字盤を指して詩を作っているのではなく、お母さんが少年の手を持って勝手に動かしているようにしか見えません。
私が受けた企画提案も「奇跡の詩人」と同じ印象を受けたので、提案をお断りました。

子どもを大切に思う、切ない母親の気持ちは私もわかります。
ただ、「ほかの子どもたちよりも優れた文学性を自分の子どもが持っていることを、本を出版することで多くの人に認められたい」と売り込み始めたら、ウソというか、おかしな方向に進んで行くと思うのです。

学習で困難さを抱えている子ども自身、そしてその親が、「他人以上に優れている部分がある」という考えに偏っていくと、社会生活を送るのがきつくなってくるのではないでしょうか。
優れている部分を誇張し過ぎれば、ウソになる危険があります。
一方で、優れている部分を自分が望む程度に周囲に認めてもらえないと、殻に閉じこもって周囲の無理解を批判ばかりしてしまうでしょう。
結果として、子どもは社会生活を送れなくなる形で大人に成長すると私は思います。
「人間は社会的動物である」(アリストテレス)としたら、社会生活を送れなくなるのは「社会とかかわりたい」という欲求が抑圧された不幸せな状況と言えます。

4月から息子は高学年になります。
過去の2年間は、息子が抱える困難さを認めながら、励まして勉強させてくれる担任教師に恵まれました。
4月からはどんな人が担任になるかわかりません。
再び「勉強を怠けている子ども」とレッテルを貼る人や、「~ね」が入るところに句読点を打つと教える人が担任になる可能性もあります。
心配性の私としては、気分が重くなります。
ただ、私が息子の将来を悲観して泣いても、不安になっても、彼の置かれた状況を何も変わりません。
ですから、私は行動を起こすことに決めました。その一つが、ブログでもたびたび書いた作文教室です。

親として行うのは、新しく担任になる人にも息子が抱える困難さをわかりやすく説明すること。
授業中のストレスを軽減するために、ノートの取り方など学習方法を工夫する方法を調べ、教えること。
周囲の子どもたちとの違いや得意な部分を私がきちんと認め、「優越感は自分の中に抱くもので、他人にひけらかす必要はない」と息子に伝えること。

加えて、先輩社会人として、自分の優れている部分を周囲の人にわかりやすく、的確に伝える技術を身に着けるように教えていくつもりです。
ひどい誇張やウソは自分の信用を失わせるので、排除させます。
「面白く話を盛る」「ウソにならない程度に強調する」という技術が身に着くといいなあと思うのですが。

最近流行したアドラー心理学の本を読んで、当初は「勉強という息子の課題に私が踏み込むのは、成長に悪影響を与えるかな」と思っていました。
ある意味では、私は私のやりたい仕事にだけに集中して、息子は息子で勉強をがんばってもらえれば、こんなに楽なことはありません(笑)。
しかし、読み書きで困難さを抱えている息子に対しては、「仕事はちょっと置いといて、私があなたの勉強にもかかわる」という姿勢に変わってから爪かみなどが見られなくなり、様子も落ち着きました。
心理学は心理学。
現実は現実。
親も子どももタイプはそれぞれ違うのですから、1つの考え方ややり方にとらわれず、選択肢をたくさん作っておくといいのかもしれません。